tppikenn_IMG_1016

日時: 2024年6月7日
場所: 衆議院第1議員会館大会議室
大分大学 小山敬晴

はじめに

 大分大学の小山敬晴です。本日は講演の機会をいただきまして誠にありがとうございます。

 私は大学院から一貫してフランス労働法,とりわけフランスの労働組合法を研究してまいりました。

 そんな私がなぜ種子法廃止違憲訴訟にかかわるようになったのか。最初は,理論的なつながりはまったくみえず,ただ,当会のみなさまの活動に賛同したからに外なりません。多国籍企業による種の支配を通じた食料への支配には,国の独立をかけてなんとしても立ち向かわなければならないと思いました。そこで,大分で在来種・固定種の交換会を長年継続してきた若手農家の方の活動にゼミで関わらせていただくことや,そういう方々の仲間と「おおいた いただきます!プロジェクト」という市民の会を結成し,いまだ実現しておりませんが,大分県種子条例の制定をめざす活路にとりかかりました。

 他方で,専門の労働法界隈では,AIなどの技術進展により,将来,労働がすくなくなり,失業者にはベーシックインカムなどの保障がなされるのが望ましいという議論がでてきました。この事柄の当否はさておくとして,金銭の保障がなされても,種子法が廃止され水道法も改正されて,食べ物もない,飲み水もない,という世界がきたらどうするのだろうか,という問題に答えをださなければならないと思いました。

ところが人生とは面白いもので,食料への権利の研究してまいりますと,食料への権利と労働権とは密接にかかわっていることがいまに至って分かり,憲法で食料への権利は確立しないかぎり,労働者の権利が保障されることはないと確信するようになりました。

 本日は,東京高裁に提出いたしました私自身の意見書の内容をごくかいつまんでみなさんにお話しをして,6月14日第3回期日(※)にむけての争点を明らかにしたいと思います。

 まず,その前提として,2017年4月に廃止され翌18年4月に施行された種子法廃止法とはいったいなんだったのか,ということをおさらいしておきたいと思います。

※6月14日に行われた第3回口頭弁論期日を踏まえ、10月1日に第4回口頭弁論期日(最終弁論)を行うことが確定しています。

Ⅰ 種子法廃止法とはなんであったのか

 まず,ことのはじまりはTPP協定の締結であり,それをうけて,農水省ではなく,内閣府主導で,規制改革推進会議農業ワーキング・グループなどで,種子・種苗を国家戦略・知財戦略における戦略物資と位置付け,民間活力の最大限の活用をするために,それを阻害している種子法を廃止する,ということが提案されたことでした。種子法を廃止することで民間種子の活用が大いに目指されたのでありますが,訴訟弁護団の岩月弁護士が指摘していることなのですが,国側代理人は意図的に「民間参入の促進それ自体が目的ではない」というふうにミスリードさせるような答弁をしています。種子法がなぜ廃止されたのか。その事実にはっきりと立ち戻らなければならないと同時に,これは国側の焦りをあらわしているのではないかと私はおもっています。

 本日ご参加のみなさんはご存じのことではないかと思われますが,種子法廃止法の制定当時,農水省がこういう民間の品種をひろげるんだと触れて回ったといわれている,三井化学の「みつひかり」が種子の交配が悪く提供できないということで突如農家に販売を停止し,さらには異品種混入,発芽率の偽り等の事実が明らかになり,当会弁護団を中心に刑事告発がなされました。これは,公共品種を民間品種に切り替えるとした立法事実を覆す問題でありますので,国側は窮地に立たされることになり,立法事実の内容を巧妙に変化させようとしているように思います。

Ⅱ この裁判の意義

 以上のような種子法廃止法の性格をふまえると,この裁判の意義は2つあります。

1. 1つは,廃止法の理念である,国民のくらしよりも経済競争を中心とする思想に対抗して,国民のくらしをまもる闘いであるということです。

2. 2つは,廃止法の背景にある,グローバル種子企業などによる種と食の支配に対抗して,わたしたちの自由,自治をまもりぬく闘いであるということです。どの種を植えるか,なにを食べるのか。食料民主主義という言葉がありますが,これも実現できない政治のどこが民主主義だというのでしょうか。

3. 私自身ができること

 このような裁判闘争に接して,私自身ができることは,法学研究者として,守るべき“くらし”と,“自由”の法的根拠を提示することです。その根拠が食料への権利ということになりますが,困ったことに日本国憲法にはその言葉が出てこないのです。明文に定めのないこと,これこそがこの裁判で乗り越えるべき壁であります。

tppikenn_IMG_1015

Ⅲ 乗り越えるべき壁 ―明文規定のないこと

1 国側代理人の反応

 当会弁護団の主張に対する国側代理人の反論は実にシンプルなもので,こちらの主張に正面から答えない,つまり「明文規定がない」,「権利が具体化されていない」ということが主な根拠となっています。それ以外に説得的な理由はなにひとつ述べられていません。

 しかし,すでに裁判所は,明文の規定がないからといって,食料への権利が存在しないという立場にはありません。この訴訟の1審判決がそうですし,当会代表の池住先生が関わられている,生活保護受給額減額決定に対するいわゆる「いのちの砦裁判」では,「人が3度の食事ができているというだけでは,当面は飢餓や命の危険がなく,生命が維持できているというにすぎず,到底健康で文化的な最低限度の生活であるといえないし,健康であるためには,基本的な栄養バランスのとれるような食事を行うことが可能であることが必要」と判示がなされています。

2 国際規範と国内規範のギャップ

 他方で,食料への権利は,1948年の世界人権宣言,1966年の国際人権規約において明文で定められており,それに批准している日本は,その具体的な保障に向けて国内法を通じて措置を取る義務を負ってはいます。

 ところが,なかなかこのような国際条約が,個人の具体的な権利ないし利益侵害を争う裁判上の紛争においては,直接の規範として扱われることは稀です。さきほどの高裁判決のような先進的な判断の積み重ねによって,あたらしく法が創造されていく必要があります。歴史を振り返っても,男女差別規範など,数えきれないほど多くの法が運動によってつくられてきました。いわずもがなですが,当該裁判が負っている歴史的使命は大変に貴重なものです。

Ⅳ 生存権とはなにか

 では,明文規定がないからといって,現行の日本国憲法およびその他の法令の解釈において,食料への権利の存在を見出すことはできないのでしょうか。そのために生存権とはなにかについて考えてみたいと思いますが,まずは一般的に学説で考えられてきた生存権の内容をお話しします。

1 ひとはパンのために生きるのみにあらず ―古典的生存権

(1)憲法的価値の序列
精神的自由の優位性,社会権の後進性

 私はフランス法を研究しているのでフランスを例にとって考えてみますが,フランス大革命を経て成立した立憲主義憲法という西欧社会の発明物は,とりわけ,個人の自由を制約する国家権力から,個人を開放することに主眼が置かれていました。自由主義経済の発展の基礎たる原理でもあって,すべて人は自由であり法の下において平等であることを確立したことが,その歴史的な意義であり,また人間の自由な経済活動に国が干渉しないという夜警国家論が唱えられました。

 人はパンのみにて生きるにあらず,という言葉ではありませんが,とりわけ内心面での精神的自由に最大限の価値が置かれました。

 その後,資本主義的生産体制も整備されて,農村から都市の工場へと労働力が移動し,貧しく未熟練な工場労働者が増えてくると,ようやく現代的意味での衣食住の困難が社会的課題として認識されていきます。その過程で労働運動が発生し,労働法も生まれてくるのですが,こうした労働者または貧困者の生活が国によって保障される権利を「社会権」といいます。さきほどのべた精神的自由などの自由権と比較して,社会権は,自由で平等である市場原理にもとづく資本主義経済の歪みを矯正するものという位置づけであり,最低限度の保障がなされていれば国に政策的な裁量が残されているものでありました。

(2)生活保障の古典的考え方
労働権と生存権の混合

 ではその社会権で語られる生存権とはどういう内容のものか,ということですが,端的に言いますと,次のように整理できます。

 まず自由で平等である社会において,労働能力のあるものは,自分自身で働いて生活の糧を得なければならない。したがって国はそのような者に対し,失業せず労働できる機会を保障する義務を負う,翻って国民は,労働への権利が保障される,と考えられます。

 つぎに,一時的な失業のみならず,疾病,老齢,障害などの理由で労働能力を失い,自分自身でまたは家族内で生活の糧を得られない者に対して国はその者が生存する権利を保障する義務を負う。これが,日本国憲法でいえば憲法25条1項の健康で文化的な最低限度の生活を国民に保障する生存権というものです。

 生存権の内容は労働権の保障とセットで考えられていた,ということです。ここで食料への権利という考え方はおそらく出てこないと思います。衣食住は労働による稼得により自分でなんとかする,それができない人の生活を保護する。このような生存権の捉え方は法学分野において立憲主義憲法の発展とともに歴史的に形成され,確立されてきたものですので,わたしは古典的生存権と名付けてみました。

2 衣食足りて礼節をしる―自然権的生存権

(1)食の保障は人が生まれながらにして与えられている権利
自然権=憲法で保障されるまでもなく当然に人が有している権利
当然,憲法でそれを制限することもできない

 たしかに,人は動物とは異なりますから,単に空腹を満たすために生きるのでなく精神的・霊的な充実を満たす生き物であって,だからこそ,パンのためだけに生きるにあらず,という格言をおっしゃられたのでしょう。しかし他方で聖書では,神は自ら土を耕さない鳥さえも生かすのに,どうして愛する人間を生かそうとしないだろうか,とも書かれています。有史以来,人間は豊かな自然の恩恵を受けて生きることができてきているのです。そのように考えると,この地球では人は生まれながらにして食の保障が与えられている,その食に一人ひとりがありつけなくさせているのは社会の仕組みのせいではないか,という疑問が出てきます。

 このように人が生まれながらにして自由に幸福に生きる権利が与えられているという考え方は,法学の世界においても自然権という概念で発展してきたものです。立憲主義憲法というのは,とくにフランスでは血みどろの抗争のすえに,社会に秩序をもたらすシステムとして,人間社会によって人為的につくられたものですが,自然権というのは,それ以前に,人間がこの世に誕生していらい変わらず存在しているものです。ですから,憲法で書かれていようが書かれていまいが当然に人が有している権利ですので,ましてや憲法や法律によってそれを制限することはけっしてできません。このような自然権の考え方を踏まえて,食料への権利は,古典的生存権との対比で自然権的生存権であるとわたしは捉えました。

(2)食は個人の尊重,自由権の基盤

 また東洋では衣食足りて礼節をしる,とも言いますが,精神面での充実は,衣食住が保障されてはじめて実現されるものです。そうすると,飽食の時代となった現代では,精神的自由や経済活動の自由こそ価値のあるものと捉えられていますが,それは衣食住が安定してこそ実現されるものです。古典的生存権の考え方では食料への権利という発想すら出てこないし,働けなくなった貧困者にのみ生存権を保障するという発想ですが,そうではないでしょう。食料への権利は,現行憲法が保障するあらゆる自由や権利の前提条件として存在するものであると考えます。

 ところで,フランスの若手憲法学者で,マガリ・ラメルさんという方が,食料への権利に関する長大な博士論文を2022年に執筆されています。彼女の業績をみつけたことで私は意見書を書き上げることができ,直接お会いしたこともないのですが,一方的に恩人と思っています。

 彼女の研究はとても面白いです。それは,食が有する社会学的機能を重視し,それを食料への権利の一内容として保障しようという立論をしています。すなわち,食料保障というと,どうしても栄養学的要素だけで捉えられがちですが,食は,ひとの豊かな精神と文化を構築する基礎であり,個人の自己決定,社会における人との結びつきをつくりだすもので,まさに民主主義社会の基盤であるというようなことをいうのです。そのような食にありつけないという不安定な要因が社会にあれば,民主主義社会は十分に機能せず,それこそが現代社会の貧困と格差構造を生み出すものであるととらえます。

 そこで,単に量やエネルギー量を確保すればいいという政策はまちがいで,このような食の社会学的機能を踏まえた食料への権利保障の在り方を提案されます。そのなかで,特定の多国籍企業による食の支配が食料への権利を脅かすことも書かれております。

 本日またはいまの私の手には余る課題ですが,この考え方を敷衍しますと,ゲノム編集規制や,明日,山田正彦先生が学習会を組織なさっている食品表示の規制についても,食料への権利からアプローチすることが可能なようです。

Ⅴ 食糧への権利とはなにか

 いよいよ最後に,ここまでのべてきた自然権的生存権を踏まえると,本訴訟で争われていることとの関係でどのようなことが言えるのかをお話しします。

1 衣食住の権利は現行憲法でも最優先に保障されるべきもの

 まずいえることは,食料への権利は現行憲法でも最優先に保障されるべきものということです。食料への権利は,憲法25条生存権のみを根拠にしているものではありません。憲法25条も,憲法13条の個人の尊重,個人の自由権もふくまれる,あらゆる権利・自由の基盤として存在する自然権的生存権として食料への権利が保障されなければなりません。これまで考えられてきた社会権たる生存権と同列に論ずることはできないため,プログラム規定説といったような,憲法25条は単に理念を示しているだけで,国が立法しない限り具体的権利はそこからでてこないというようなこれまでの通説は妥当しないのです。

2 食糧へのアクセス権

 では具体的に私たち個人はどのような権利をもち,国はどのような義務を負っているのでしょうか。さきほどお話ししましたラメル氏の業績に依拠すれば食料への権利はより豊かな内容をもちうるものですが,ここではさしあたり,法学分野でもよく議論される食料へのアクセス権という考え方を軸に議論をたててみます。

(1)国の義務:十分かつ安全な食料を供給する体制を整備し,食料の不安定性を除去すること

 国民には食料にアクセスする権利が保障されていることの裏返しで,国は十分かつ安全な食料を供給する体制を整備し,食料の不安定性を除去することを義務として負っていると考えます。

(2)農業基本法と種子法

 そして,当初より,食料への権利が明文で規定されていないということを申し上げて参りました。食料への権利の一内容をこのような食糧へのアクセス権としてとらえれば,国は,はっきりそうは言っていなくても,それに向けた法制度をすでに整備していることから,十分にその義務を果たそうとしている。裏を返すと,国民からすれば食料へのアクセス権が保障されていたということができます。

 具体的な話をしましょう。現在の農業基本法である食料・農業・農村基本法2条では「食料の安定供給」が書かれており,4条では「農業資材」の確保が定められています。種子法は,1952年に成立した法律であり,農業基本法は1999年に成立した法律ではありますが,農業基本法は,農業関連法令の憲法のような存在ですから,基本法制定と同時に廃止されないかぎりは,その基本法の法体系のなかに位置付けられたとみるべきでしょう。

 このように考えますと,種子法という法律は,農業基本法の2条および4条において国が食料への権利を保障するために自ら定めた義務を具体的に実現するための具体的施策として,位置づけることが可能です。これを廃止すれば,国はこの義務の履行を放棄し,国民の食料へのアクセス権を侵害するものと位置付けることができるでしょう。原告は種子生産者,米の生産者,消費者の3類型にわかれますから,実際にはより緻密な立論をしていますが,本日はそこまで申し上げません。

 重要なことは,憲法やその他法律のなかに「食料への権利」という明文がなくても,それに基づく法制度が日本法において十分に整備されていたということであり,種子法廃止法はそれを大きく侵害したものであるということです。

Ⅵ むすびに

 すでに十分語りつくしましたので,私もこと切れそうですし,むずかしい法律論の話でみなさまもお疲れになったでしょう。最後に,私の専門の労働法との関係で一言申し上げて,本日のわたしからの話をおしまいにいたします。

 それは食料への権利が確保されてこそ,従属労働から解放され,ディーセントワークが実現する,ということです。労働法という学問は,労働の場での人権侵害をなくし,労働者一人ひとりが自由で働き甲斐のある仕事ができることを目指しています。しかし,法理論は精緻化しているのに,労働運動は停滞し,過重な労働はなくならず,充実した労働はほとんど実現できず,労働は苦しいもの,労働からの逃避ばかりがさけばれています。これを解決するには,労働法分野のなかだけで議論しても埒があかないと考えています。

 なにより,賃金が上がらず,物価水準ばかりが上昇するなかで,労働者は生きるため,食べるためにぎりぎりの労働と生活を強いられています。いまこそ,生活保護が必要な人だけでなく,すべての人に健康で文化的な生活が可能となる食料への権利が保障されることで,苦痛のある労働は世の中から淘汰されて,働き甲斐のある労働が残り,本当の意味での労働の自由が確保されると思っています。

 人口減少への対応とか,生産性の向上とかさまざまなことがいわれますが,食料の「食」への権利と,職業の「職」への権利,この2つ「しょく」の権利の関係が適切に調整され,個人の豊かな生が守られこそ,わたしたちの健全で活気ある希望ある社会が実現されると確信しています。ご清聴いただきありがとうございました。

プロフィール

労働法学者
小山敬晴(こやま・たかはる)

大分大学経済学部准教授。専門は労働法。ワーキングプアなどの労働問題を考えるなかで、今の法制度にはお金の補償はあっても衣食住の現物を補償する仕組みがないことなどから、生存権と労働権の関わりに着目して研究。大分県での種子条例制定を目指し、市民団体「おおいた いただきますプロジェクト」を立ち上げて活動もしている。